Katsu Style 


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最初に

     
 

音楽のジャンルは様々であり、様々なジャンルが存在します。その中でも自分の好きなヒップホップを紹介します。

ヒップホップとは

 
 

ヒップホップとは、1970年代にアメリカのニューヨークで誕生した。
ヒップホップの誕生に大きく関わった人物として、『クール・ハーク』『グランドマスターフラッシュ』『アフリカ・バンバータ』の3人が挙げられ、彼らは「ヒップホップの創始者」「ヒップホップ3大偉人」と呼ばれている。
ヒップホップ文化の始まりは、1973年に『クール・ハーク』が、ブレイクビーツを披露したことが発端とされ、「ヒップホップ」という言葉と概念は、1974年11月12日に『アフリカ・バンバータ』が提唱した。
ミドルスクールとニュースクール:ラップの可能性が開花 DJグランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブがリリースした『The Message』という曲は、その後のヒップホップの方向性に大きな影響を与えた。
それまでのラップはパーティーを盛り上げるためのものだったが、『The Message』でラップされた内容は、貧しい黒人の日々の生活苦だった。
こうして、ヒップホップは単なるパーティー音楽ではなく、ストリートの様々なメッセージを乗せることができる革新的な音楽となった。
その後、ニューヨーク(東海岸・イーストコースト)では、第1世代であるオールドスクールに続いて、ミドルスクールやニュースクールと呼ばれる新しい世代のラッパーやDJ、プロデューサーたちが次々と登場した.

海外と日本の違い

 
 

西海岸ではギャングスタラップが誕生
一方、1980年代にカリフォルニアのロサンゼルス(西海岸・ウェストコースト)に伝わったヒップホップは独自の進化を遂げました.
ブラッズやクリップスといったカラーギャングたちが活動していた西海岸では、そうしたカラーギャングの日常をリリックに落とし込んだギャングスタラップが発展した。
アイス・Tの活躍などによってギャングスタラップが広がり始めると、その完成度を高めて、過激なギャングスタラップを全米に知らしめたのがN.W.A.というクルーだった。
また、サウンド面では常夏のカリフォルニアらしいGファンクというサウンドが、N.W.A.のメンバーでプロデューサーでもあったドクター・ドレによって生み出された。
やがて西海岸では、ドクター・ドレや2パック、スヌープ・ドッグといったラッパーたちがデス・ロウというレーベルに集い、ギャングスタラップ / Gファンクの全盛期を演出しました。
この中の一人2pacは個人的に大好きで、外国のラップの入りがそれだったので、抗争で亡くなったことが悔やまれる。
しかし彼の作品は伝説となり、亡くなったことでより2pacの歌詞や生き様やそれを語っている楽曲が現在も輝いていると考えます

 

ヒップホップの拡張 

 

また、ギャングスタラップとは路線の違うヒップホップが生まれてきたのも2000年代である。
ドクター・ドレがデス・ロウ離脱後に創設したレーベル = アフターマスは、デトロイト出身の白人ラッパーであるエミネムと契約してデビューさせます。
「エミネム自身ではなく、二重人格のスリム・シェイディが歌っている」という設定(逃げ道)を利用して、過激な妄想やセレブへの口撃、下品なブラックジョークなどをラップする斬新なスタイルは、マス層の熱狂を呼び、世界的に大ヒットした。
このエミネムはラップを詳しくない人でも1度は聞いたことがある名前だと思う。
映画エイトマイルはエミネム自身が自伝となり映画化もされた。
このように、海外ではヒップホップは日常にあるが、日本ではあまり姿を見せない。
1990年代に入り、ようやくアメリカのヒップホップを聴いて育った、ヒップホップカルチャー全体や歴史を自分たちの中に消化し、ライフスタイルとして体現しているアーティスト達が日本でも現れはじめる。
You The Rock ライムスター、キングギドラなどがそれに当たります。勢いそのままに1990年代後半には多くのラッパーたちがメジャーデビューを果たし、ヒットチャートにも顔を出すようになります。
1999年のDragon Ashの『Grateful days feat,ジブラ』はチャート上位を席巻。
ZEEBRAの「俺は東京生まれヒップホップ育ち/悪そうな奴は大体友達」というパンチラインと共に、一気にヒップホップをメジャーシーンへと押し上げて行きました。2000年代前半はまさにお祭り状態になる。オジロザウルス、般若、mc漢など、現在の大御所たちが現れる。

 
 

2000年代後半~】冬の時代  しかし2000年代後半になるとブームの終焉、CDから次の音楽フォーマット(配信とYouTube)の出現に伴うCD不況、そしてリーマンショックを発端とする世界恐慌を受けて多くのラッパーがメジャーレーベルとの契約を更新できず、消えていく。
Rhymester、ジブラが武道館に到達し、AK-69やDJ PMXを代表とするアメリカ西海岸のカルチャーをバックボーンとするアーティストが10代から人気を集める一方、ヒップホップ専門誌『blast』の休刊、古くからヒップホップシーンを支えてきた渋谷宇田川町のレコードショップ、そして流通会社でもあった「シスコ」の閉店など、「冬の時代」を迎える。
 2010年代~】YouTubeと第2次ラップブーム  YouTubeからKohhやAKLOそしてSALUが頭角を現す一方、アンダーグラウンドシーンではDown North Campが出現、黒い(黒人のようなリズム感とフロウ)ヒップホップが好きなファンの間で支持を集める。
そしてアメブロで一時代を築いたサイバーエージェント社(社長の藤田晋氏は大のヒップホップファンを公言している)がヒップホップメディア『Amebreak』をネット上に創設した。
さらにはUMBや戦極MCバトルなどのフリースタイルバトルがYouTubeで多くの再生回数を記録し出すと、BSスカパー!で「高校生ラップ選手権」が放送開始する。
それが大きな話題となったところを見たサイバーエージェント社はすかさずテレビ朝日の深夜枠を買い取り、あの有名な『フリースタイルダンジョン』がスタートする。
自分がヒップホップにハマっていったのは丁度このころである。
ak69の『and I love you sou』 という曲は爆発的に流行っていて筆者も何百回と聞いた曲であるし、ヒップホップに出会わせてくれた思い出の一曲である。
若い層の間で一気に人気となり、ブームが到来する。
その勢いは凄まじく、高校生のMCバトルの大会が武道館で開催されるほどであった。
テレビのバラエティー番組やCMにラッパーが起用されたり、人気ラッパーの新曲のMVを大企業がタイアップして作ったりと、こうした活動が当たり前になってきた。
ファッション面でも大きく影響を与え、ポロやアディダス、リーバイス、フィラなどがこのムーブメントに乗り、「ヒップホップ黄金期」と呼ばれる1990年代にリリースしたラインの復刻を乱発することもあった。
さらにインターネットの影響でヒップホップが爆発したのは日本だけではなかった。
実は全世界同時進行であった。
アメリカでは、ヒットチャート上位をヒップホップが独占、ジャンル別の売上高でも長い間不動の1位だったロックをついに超えるという快挙を成し遂げた。

 

最後に

 
 

このようにクラシックのような歴史はまだないものの、誰にも左右されず、自由に言いたいことを歌詞に書けるヒップホップに筆者はとても魅力を感じる。
富裕層が作る音楽もあるし、それを否定する訳でもないが、このような形態の音楽もとても興味深いと考える。
音楽はますます多様化していくだろう。
その人の歴史や思いなどをそれぞれの音楽が表し感じ取ることができる音楽は最高に素晴らしい媒体である。